賃貸経営で退去時に揉めやすいのが、敷金の精算と原状回復の費用です。結論から言うと、経年変化と通常の使い方による傷みは、オーナー(賃貸人)の負担です。入居者(賃借人)に請求できるのは、原則として、故意・過失や通常の使用を超える使い方で生じた傷みの補修費です。ここでは2026年10月時点の民法と国土交通省のガイドラインをもとに、請求できる範囲の線引きを整理します。
敷金は「債務の担保として預かるお金」と民法で定義された
敷金とは、名目を問わず、賃料などの金銭債務を担保するために賃借人が賃貸人へ渡すお金です。2020年4月1日施行の改正民法で、この定義が条文に入りました。
法務省の資料によると、敷金の返還義務が生じるのは、賃貸借が終わって部屋が返還された時点です。返す額は「受け取った敷金-それまでに生じた金銭債務」です。差し引ける債務の例として、未払賃料、損害賠償金、原状回復費用が挙げられています。
つまり、退去の立会い前に敷金を返す義務はありません。ただし、差し引く根拠となる未払賃料や補修費の内訳は、オーナー側が説明できる形にしておく必要があります。
原状回復の範囲は「通常損耗・経年変化を除く」
原状回復とは、借りた時の状態に戻すことではありません。改正民法は、賃借人が原状回復義務を負うのは「借りた後に生じた損傷」であり、通常損耗と経年変化は含まないと明記しました。
国土交通省のガイドラインは、原状回復を次のように定義しています。賃借人の居住・使用で生じた建物価値の減少のうち、賃借人の故意・過失、善管注意義務違反、通常の使用を超える使用による損耗・毀損を復旧すること、です。善管注意義務とは、部屋を借りた人として当然払うべき注意のことです。
負担の区分は、ガイドラインの例に沿うと次のとおりです。
| 区分 | 負担する人 | 例 |
|---|---|---|
| 経年変化・通常損耗 | オーナー | 自然な劣化、通常の使い方による損耗 |
| 故意・過失、通常を超える使用 | 入居者 | クロスへの落書き、誤ってつけたフローリングの傷、放置して広がったカビ、喫煙による臭いや変色 |
実際の線引きは、物件ごとに写真と契約書で確かめてください。
請求額は「経過年数」で下がる
入居者に負担義務がある傷みでも、請求できるのは補修費の全額ではありません。ガイドラインは、年数がたつほど入居者の負担割合を減らす考え方を採っています。耐用年数が終わった時点で価値が1円になる直線を想定して計算します。
クロスの耐用年数は6年です。入居時に張り替えたクロスを汚した場合の負担割合は、次のようになります。
| 退去までの年数 | 入居者の負担割合 |
|---|---|
| 3年 | 50% |
| 4年 | 約33%(1-4/6) |
| 4年8か月 | 約22%(1-56/72) |
6年を超えると、クロスの価値は1円です。入居者の負担はほぼゼロになります。
一方、経過年数を考慮しないものもあります。フローリング(部分補修の場合)は、年数にかかわらず補修した面積分を負担します。畳表、襖紙、障子紙のような消耗品も同じです。
請求できる範囲も限られます。ガイドラインは、毀損部分の補修に必要な最低限度の工事を負担の基本としています。クロスなら、傷んだ箇所を含む一面分までです。部屋全体の張り替え費用は原則オーナー負担ですが、喫煙で部屋全体が変色したり臭いが付いたりした場合は、張替えの対象を部屋全体まで広げられます。ただし負担額は経過年数に応じて減るため、全額ではありません。ガイドラインの例では、総額48,000円のうち入居者負担は16,000円です。
精算の流れは、敷金から入居者負担分を引き、余りを返し、不足分を請求する形です。ガイドラインの計算例では、敷金12万円から入居者負担分92,170円を引き、27,830円を返しています。
特約で入居者の負担を増やせる条件
契約書に「退去時のクリーニング費用は入居者負担」などの特約があれば、通常損耗の費用を入居者に負担させられることがあります。改正民法の原状回復の規定は、当事者の合意で変えられるからです。
ただし、ガイドラインは特約が有効になる条件として、次の3点を挙げています。
- 特約の必要性があり、暴利的でないなど、客観的・合理的な理由がある
- 入居者が、通常の原状回復義務を超える義務を負うことを認識している
- 入居者が、その義務を負うと意思表示している
この3点がそろわない特約は、争われたときに認められないおそれがあります。契約書に「原状回復は入居者の負担とする」と1行あるだけでは足りません。負担する通常損耗の範囲を契約書に具体的に書き、重要事項説明や契約時に口頭で説明して、入居者が理解して合意した経緯を残してください。
退去時に揉めないための準備
トラブルの大半は、入居時の状態を示す記録がないことから起きます。次の2つを入居の段階で整えておくと、精算で争点が減ります。
- 入居時の室内の写真と、立会いでの状態確認の書面(クロスの張替え時期も控える)
- 負担する範囲を具体的に書いた契約書と、その説明の記録
それでも折り合えない場合、ガイドラインは話し合いでの解決を基本としたうえで、次の手段を示しています。
| 手段 | 特徴 |
|---|---|
| 少額訴訟 | 60万円以下の金銭請求が対象。原則1回で審理し、判決に控訴はできない。相手が異議を出すと通常訴訟に移る |
| 民事調停 | 話し合い中心。成立すれば確定判決と同じ効力がある。相手が出頭しないと不調に終わる |
| ADR(裁判外紛争解決) | 各機関の手続き。仲裁以外は拘束力がない。平均審理期間は4.4か月 |
| 通常訴訟 | 地方裁判所の平均審理期間は10.5か月、簡易裁判所は3.7か月 |
ガイドラインは使用を強制するものではなく、最終的には契約内容と物件の使用状況で個別に判断されます。
よくある疑問
Q. ハウスクリーニング代は、必ず入居者に請求できますか。 A. 必ずではありません。通常の使い方での汚れは、ガイドライン上はオーナー負担の側に入ります。請求するなら、前節の3要件を満たす特約が必要です。
Q. 古い物件で、クロスが入居前から黄ばんでいた場合はどうなりますか。 A. 入居時に張り替えていないクロスは、入居時点の価値を当事者で協議して決め、そこから経過年数で負担割合を計算します(ガイドラインの例では入居時の価値を80%としています)。築年数や状態によっては、入居者の負担はごく小さくなります。入居時の写真や記録で状態を示せるかが分かれ目です。
Q. 敷金を返す期限は決まっていますか。 A. 改正民法は、部屋が返還された時点で返還義務が生じるとしています。日数の定めは、国交省ガイドラインにはありません。契約書に返還の時期を書いておき、その期限内に明細を添えて精算してください。
Q. 敷金なしの物件でも、原状回復を請求できますか。 A. 原状回復の負担区分は、敷金の有無と関係なく同じです。敷金がない場合は、費用を直接請求することになります。
賃借人がいる物件を売却する場合は、入居者がいるまま売る——オーナーチェンジ物件の売却で押さえる手順もご覧ください。契約形態の違いは定期借家と普通借家、賃料や契約日の整理はレントロールの読み方で扱っています。
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